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【ストーリー】
割愛
【ピックアップ】
ここ一週間くらいで映画館に行った方はもう観たと思いますが、新しいカットが盛り込まれた「かぐや姫の物語」の予告編が始まってます。もう確信しました。これはとんでもない映画くるで。
【感想】

憂鬱…。

お稽古の途中、先生の目を盗んで十二単の裳(も)を脱ぎさり、きゃっきゃはしゃぐ田舎娘、姫さま。
脱ぎ捨てられた裳抜けの殻だけがぽつんと佇む。

とりわけて印象に残っているシーンでして、この「裳抜けの殻」があたまから離れません。
愛したのは生身の姫か、裳抜けの殻か。

姫の犯した罪と罰

見終わったいま改めて“姫の犯した罪と罰”という文言におもしろさを感じます。
実に見事だなあ、と。

「かぐや姫」は女性のための物語として愛されてきました。
当時は男性からの一方的な求婚があり、女性はそれを基本的には拒否出来ない立場にあって、そんな時代背景の中で生まれたかぐや姫は求婚を(あろうことか帝のですら)ズバズバと断っていく存在としてとりわけて輝いてみえたのでしょう。
差別的制度に対する女性たちのホンネ、そう、わたしはわたし。
わたしは誰のものでもないの。わたしをみて。生身のわたしを愛して。
男性が愛していたのは十二単の裳に包まれたものであって、生身ではなかったんですね。
スゴい時代だよなあ。

そんな古い時代の物語に現代的、そして男性的解釈を加えて再び産声をあげた高畑勲の「かぐや姫」ですが、最も大きく更改されたのは捨丸(すてまる)という名の男の子を加えた点です。この捨丸を加えることによって「かぐや姫」の物語にまったく別の解釈が与えられました。この解釈が“姫の犯した罪と罰”にあたるんですね。

これ、ネタバレという意味じゃなしになかなか語れないんですよ。
養老孟司が9年間400000文字を費やして「養老孟司の大言論」と題して3部作を刊行しましたが、そのラストを飾るシリーズ3の題が「大切なことは言葉にならない」ときたもんだからみんなズッコけたでしょ。でもね、やっぱり言葉にならないんですよね。

すげーもん見ちゃったな、としか言えないんですよ。
鑑賞前から予想はしてたんです。これは大切に育てた愛娘を送り出さなければいけない結婚式の日、涙をこらえて笑顔で送り出す父親の気分で、泣きながら家に帰るのだなあ、なんて。

1mm重なるところなく違いました。完膚なきまでに違うんです。
娘を育てていないので違うかどうかわかるはずもないですが、やっぱり全然違う。
京都に桂離宮という月をたのしむためだけに作られた離宮があるのですが、その桂離宮で池に映ったゆれる月を三日三晩見下ろし続けたい気分といいましょうか、憂鬱…ほら、憂鬱ってことばは一般的に使われるメランコリックな状態を指す意味と、実はもうひとつある状態を指す意味を持っています。

「草木が暗くなるほどに茂るその様」

こういう意味もあるんですね。人間にとってのそのメランコリック的な憂鬱のあり様と、自然にとっての成長してゆく強き憂鬱のあり様。同じことばなのに人と自然にそれぞれ当てはめてみるとこんなにも印象が違うんだなって思ってたんですけど。

今回かぐや姫を観て、自分のこころの中に人に当てる憂鬱と自然に当てる憂鬱が同居してる感覚があるんですよ。
これはひとつの発見でした。
感覚的なものをことばにしようとして出来ていないパターンですかね。
う〜ん、「大切なことは言葉にならない」


感覚的なものをことばにするのは僕には難しいので感情的な部分を書いたほうがいいですね。
僕はかぐや姫が嫌いです。
自然のなかで育てられた幼少時代に想いを馳せて、ほんとうは草木に囲まれて虫や鳥たちと共に暮らしたいの!ほんとうの自分は…ほんとうの自分はそこにあるの!

こういう「自然回帰」を盛り込むあたりがジブリらしくて好きではあるんですけど、それにしてもね、このおんな、とんだ食わせ者ですよ(笑)

つぎはぎだらけのオンボロ服を着て、糞尿あつめてそれ撒いて、糞尿で育てた作物食ってまた糞尿して。そんな自然のサイクルがかぐや姫にできるかね?
舗装もされていない獣道歩いて足裏ガチガチに固くなっちゃって、虫に吸われて刺されて肌ボロボロになって、髪の毛とかしてもとかしてもバッサバサ。季節の変わりゆく美しさに対比して、季節の変わりゆくごとに老いてゆく。そんな人と自然の有り様にかぐや姫よ、あなたはほんとうに耐えられるのかね?

ほんとうの自分を見てほしいと言うがかぐや姫よ、あなたこそ見たくないものを見ないように生きてきたじゃないか。

極めつけは幼なじみのおにいちゃん、捨丸にいちゃんとの再会。

「あなたとだったら、もっとちゃんと生きることができたかもしれない」

捨丸に妻子あることも知りながら、月に帰らなければいけないことも知りながら。その立場でそれ言います?このおんな…。

捨丸にいちゃんも捨丸にいちゃんでね、かぐや姫のこのことばを受けて

「逃げよう。いっしょにどこまでも」

捨丸、お前…。

言い忘れたんですけど、実は今回あえてレディースデイである水曜日に見ようって決めてたんですよ。ほら、かぐや姫の物語なんてレディの反応がいちばん正しいわけじゃないですか。だから公開直後の水曜なら女性が多いかなと思いまして。予想通りレディばかりでね、僕はレディたちに囲まれながら至福の鑑賞タイムだったわけです。で、上記の名場面ですよ。周囲からグスングスン聴こえてくるんですよ。えらく感動してるんですね。極上の純愛ものとして捉えてるんですかね?僕が観た回がたまたまそんな空気が充満していただけで、ほんとうはあの劇場はマジョリティではなかったんですかね?

ラース・フォン・トリアー監督が以前制作しました「メランコリア」という映画がありまして、この映画は地球に惑星が異常接近し衝突してしまう話なんですよ。地球滅亡を描いた作品なんですね。ジャスティンとクレアという姉妹がいまして、ジャスティンは重度の鬱病なんですよ。クレアはそんなジャスティンと暮らしてサポートするんですね。生活を続けていくうちに少しづつジャスティンの症状は和らいでいくんですが、時を同じくして惑星「メランコリア」が地球に接近し始めるんです。地球に衝突するんじゃないかと不安を抱えてインターネットでクレアは調べまくるんです。調べれば調べるほど地球に衝突する可能性が高いことが明らかになっていくんですね。クレアの不安がどんどん増幅していくのに反して、ジャスティンは和らいでいくんです。でもジャスティンは病気が回復しているわけじゃなくてこの世の終わり(鬱状態)をすでに体験し覚悟ができてるだけなんですよ。クレアが地球滅亡の瞬間に怯える様子をジャスティンは叱るんですね。「気をしっかり保ちなさい」って。この正常な状態と鬱状態が根本的には変わっていないのに入れ替わっていくってのがおもしろい映画なんですけどね。話を元に戻すと、劇場内で女性たちのすすり泣くそれをね、僕はおもいっきり憂鬱な状態で眺めていたんですね。ジャスティン状態ですよ。正常な女性たちが正常に感情を昂らせてゆく、季節がうつろいでゆくよう自然なその昂りを、僕はおもいっきり憂鬱に眺めていたんです。

そして映画は純愛シーンからラストシーンに一気に向かうわけです。
高畑勲自身これが最後の作品になるって自覚はあるはずですよね。年齢的にも。
そんな最後の最後のところでおもいっきりふざけるんです。
月からの使者たちがかぐや姫をお迎えにくるのですが、その映像がふざけてるんですね。
ここは本当に酷いんで是非観てほしいんですけど。
周囲で昂った感情が渦巻いてるなかで、ふざけた映像とふざけた音が流れるんです。
それで女性たちは「えっ?」って反応してるんですね。
昂った感情のやり場に困った感じで、どんどんしぼんでいっちゃうんです。
僕のほうはそれがおかしくてどんどんどんどん昂っちゃうんですね。
ジャスティン状態ですよ。


ジブリ史上最大の問題作ですよ。


そんな異常な状態をおもいっきり引いた場所から眺めていてふと、姫のおかした罪と罰がわかった気がしたんですよ。観客(女性たち)を散々振り回して、周囲を振り回して、ほんとうのわたしを見て見て見てーーーーって叫び続けた



【姫】ってだれだ?




とにかくめちゃくちゃスゴいです。
是非劇場で確かめてみてください。